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アラキ・クロニクル(1) 写真への目覚め

「再見!アラーキー」の連載では、写真家・荒木経惟あらき のぶよしの仕事を複数の切り口から紹介した。 そこで何度か言及したように、「人生を写真にする」「写真即人生」というのが荒木のスタイルである。 荒木ほど人生そのものをさらけ出してきた写真家はいない。 眼と手の延長としてカメラを持ち、日記のように写真を撮っている。 荒木に言わせれば「何でもない日常にこそ撮るべきものがあって、写真家はそれを複写するだけでいい」。 要するに荒木は、生きながらにして自分のドキュメンタリーをやっているのだ。

人生を写真にすることは簡単なようでいて実はとても難しい。 日常を撮ることは終わりのない営み(唯一死によって終わる)だし、苦しい現実にある時もカメラを手放すことは許されない。 愛する妻や猫の死、そして自身の病すら写真の中に取り込んできた荒木が、「写狂」と言わずして何であろうか。 きっと荒木の脳裏には、「自分は人生という舞台の演者であり、演出家でもある」という意識があるに違いない。

今度の連載「アラキ・クロニクル」のテーマは、荒木の人生の物語である。 単なる年代記にはしたくない。 荒木が写真を通して自分の人生をどう解釈してきた(=物語ってきた)のか、この点にフォーカスして書いていくつもりだ。

実家は下駄屋

荒木経惟は1940年5月25日、東京都台東区三ノ輪に生まれた。 生家は下駄を製造・販売する「にんべん屋履物店」。 職人気質の父と気丈な母のもとで育った。 狭い作工場の中で木の塊から下駄を作り上げる父の姿は、荒木少年を子どもながらに感動させた。

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父は彫刻的なセンスがある人で、店の看板として下駄の形をした大きな像を作っている。 看板といっても板に絵を書いて終わりではなく、わざわざ立体にしたり表面を銅板で囲んだり、人と違う"こだわり"を持っていた。 看板は戦争で供出することになったが、戦後に同じものを作り直したそうだ。

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家の斜め向かいは遊女の投げ込み寺として知られる浄閑寺だった。 墓地ではあるものの、ターザンごっこなどに興じる遊び場となっていたという。 遊びと言えば、紙芝居、ベーゴマ、めんこも人気で、道具を手作りするのが下町流だった。 荒木少年は画や工作が得意で、特にゾウがお気に入りのモチーフだった。 ゾウへの思い入れは強く、後に「デロンくん」というキャラクターを創作している。 吉原という土地柄、客引きにそそのかされて売春宿で覗きをしたこともあり、性の目覚めも早かった。

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父の見よう見まねで写真を覚える

写真への目覚めは父によるところが大きい。 アマチュアカメラマンでもあった父は、記念写真や行事撮影にしょっちゅう同行していた。 荒木は小学生の時から父の手伝いをしていた(暗室の組み立てカメラが倒れないように三脚をおさえたり)。 そのうち見よう見まねで撮影や現像の手法を覚えていった。 初めて独力で写真を撮ったのは、小学校5、6年の頃、林間学校で日光東照宮だった。 父から譲り受けた蛇腹カメラ「ベビーパール」を持って朝方旅館を抜け出し、陽明門や「見ざる言わざる聞かざる」の三猿、眠っている猫を写した。

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父を喜ばせたい、父に褒められたいという気持ちが写真へのモチベーションになった。 父も息子の才能を認め、35ミリカメラ「カロワイド」を買い与えたり、撮影を任せたりしてくれた。 この頃の愛読書は『サン写真新聞』や『国際写真情報』。 『サン写真新聞』は写真の勉強になると思って父がとってくれたものだ。

文学青年

当時エリート校だった上野高校に進学するも、周りは東大を目指す人間ばかりで気後れし、学業は早々に諦めた。 作文が得意で、国木田独歩や志賀直哉、幸田露伴の作品をよく読んでいた。 文学志望ではあったものの仕事にするとなると自信がなく、結局大学では写真を学ぶことにした。 その頃写真が学べる大学というと、千葉大、日大芸術学部、写真短期大学(現・東京工芸大学)の3校。 荒木家は兄弟が多く家計に余裕がなかったため、学費が安い千葉大を選んだ。

関連項目

ソース

  • 荒木経惟『天才になる!』講談社 1997
  • 荒木経惟『ARAKI by ARAKI』講談社インターナショナル 2003

最終更新日: 2024-07-17