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浮世絵の歴史(1) 浮世絵誕生の前史

浮世絵というと「江戸の町やそこに生きる人々をモチーフとした一枚摺り形式の版画」というイメージがあります。 しかし、こうしたモチーフや形式が生まれるまでに長い準備期間があったことは意外と知られていません。 その流れをざっくりとらえると、近世初期風俗画 → 寛文美人図 → 浮世絵となります。 ここでは、浮世絵誕生の前史として、近世初期風俗画から寛文美人図までを解説します。

「浮世」の意味

応仁の乱をきっかけに世に下剋上の風潮が広まり、中世の価値観は大きく揺らぎました。 中世の人々は仏教の厭世思想を信じており、貧困や戦乱が頻発する現世を忌むべき「憂世」と考えていました。 彼らにとっては来世の極楽浄土に行くのが第一の願いだったのです。 それが近世になると、「短く儚い人生だからこそ浮き浮きと楽しくすごそう」という考え方が生まれ、現世は楽しむべき「浮世」だと理解されるようになりました。 江戸時代になると浮世は「当世風」の意味に変化し、浮世絵は最新の社会風俗を写すメディアとして親しまれるようになりました。

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近世初期風俗画

「憂世」から「浮世」への価値観の転換は文化方面にも表れました。 中世絵画の画題はもっぱら貴族生活や仏教説話でしたが、近世以降庶民の日常や遊興も描かれるようになります。 中世末 → 桃山時代 → 江戸初期にわたって描かれた絵画を「近世初期風俗画」と言います。

近世初期風俗画の代表例が「洛中洛外図屏風」です。 洛中洛外図屏風は、屏風という大画面の中に、京の名所と年中行事をパノラマ的に描いたものです。 描写が驚くほど細かいので実際に見ると感動します。 当時の街並みや人々の生活を知ることのできる、第一級のメディアです。

洛中洛外図屏風の作例はいくつかありますが、ここでは舟木本1を見てみましょう。 描かれているのは大阪の陣(1614年)の頃の京都です。

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舟木本の作者は 岩佐又兵衛いわさ またべえ との説があります。 又兵衛の人物画は「豊頬長頤(ふくよかな頬とやや長めのあご)」という特徴があり、江戸の浮世絵にも影響を与えたとされています。

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洛中洛外図屏風は「都市図」と言うべきものですが、近世初期風俗画には他にも「祭礼図」「遊楽図」「歌舞伎図」といった作例があります。 庶民が花見や踊りに興じる様子が屏風に描かれました。

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祭礼図・遊楽図・歌舞伎図は、洛中洛外図屏風の派生で生まれてきたものです。 都市図の中に描かれていた祭りや遊興の場面をクロースアップしたものと理解できます。

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絵画に庶民が登場するようになったとはいえ、その絵画自体は庶民のものではありませんでした。 屏風はもともと部屋を仕切るために使われた単なる調度品です。 豪華な屏風を作れるのは、貴族・武士・豪商といった権力者だけ。 彼らは狩野派などの御用絵師に絵を描かせ自邸を飾り立てました。

寛永期の風俗画

江戸時代も寛永期(1624-1644年)になると、狩野派にかわって無名の町絵師が風俗画の描き手となりました。 描かれる対象も、パノラマ的にとらえた群衆から、視野を絞り人間そのものへと変化しました。 背景なしの女性像だけで魅せる《湯女図》や、女性達の労働図である《機織図屏風》は、女性の美しさとたくましさを表現しています。

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寛文美人図

寛文期(1661-1673年)には、さらに女性美が追求されていきました。 美しい着物に身を包んだ一人立ち姿の女性像は「寛文美人図」と呼ばれています。 美人図は寛永期まで屏風の一扇に描かれていましたが、次第に掛幅が主流となり、縦長の小さな画面に繊細な線で描くスタイルが流行しました。

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寛永美人図にいたっても金持ち向けの高価な絵だったことに留意しておきましょう。 浮世絵版画という「民衆のための芸術」が誕生するのは、菱川師宣の登場を待たねばなりません。

関連項目

ソース

  • 稲垣進一(編)『図説浮世絵入門』河出書房新社 1990
  • 小林忠(監修)『カラー版 浮世絵の歴史』美術出版社 1998

最終更新日: 2024-02-26