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浮世絵の歴史(12) 風景画の大成者 歌川広重

風景画の名人として葛飾北斎と並び称される絵師が 歌川広重うたがわ ひろしげ です。 北斎の風景画は奇抜な発想やダイナミックな構図を特徴としていますが、広重の風景画は穏やかで抒情的な雰囲気に満ちています。 絢爛に傾いていく幕末の浮世絵界にありながら、抑制された彩色や彫摺の手法を用いて、他の絵師とは一線を画す存在となりました。

歌川広重

広重は常火消同心1の安藤家に生まれ、幼い頃は「重右衛門」と呼ばれていました。 13歳で父と母を相次いで亡くし、火消職を継ぎますが、後年祖父の実子に家督を譲り、自身は画業に専念しています。

元来絵を描くことが好きで、15歳の時歌川豊国に入門しようとしますが、すでに多数の門弟を擁していたため断られ、歌川豊広の門弟となります。 そこで師の一字と本名の一字をとった「広重」の名をもらいます。 1818年に「一遊斎」の号で絵師デビュー。 しばらくは美人画や役者絵、合巻の挿絵を描いて修養を積みました。

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1831年に発表した《東都名所》シリーズで風景画絵師としてのキャリアを開始します。 当時輸入されたばかりのベロ藍を用いて清新な画面を作り出しました。

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続く《東海道五十三次》2シリーズで風景画絵師としの名声を確立します。 竹内保永堂から刊行したこのシリーズは、東海道の53宿場に始点の江戸日本橋と終点の京三条大橋を加えた55枚で構成されています。 実際の東海道旅行をもとに描かれており3、あたかもその地を訪れたかのような気分になれると評判を集めました。

江戸時代の旅行ブーム

江戸時代には参勤交代制度があったため、早くから街道や宿場の整備が進められました。 商業の発達で以前にも増して交通網が整備され、社会のあらゆる階層の人々が頻繁に旅をするようになりました。 こうした旅行ブームを受けて、『名所図会』という旅行ガイドブックや『東海道中膝栗毛』などの旅行文芸が盛んに刊行されました。 旅先では名所旧跡を訪れたり地元の名産品を食したり、今と変わらない楽しみ方をしていました。

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同じ名所を描いた版画でも、《東海道五十三次》と『名所図会』では明確に違いがあります。 『名所図会』の挿絵が実景を正確に写したものであるのに対して、《東海道五十三次》は実景の再現より見る者を飽きさせない演出に主眼が置かれています。 シリーズを通してイメージが重複しないよう工夫しなければならないのです。 広重は以下の点に配慮して画面にバリエーションを持たせました。

  • 構図: パノラマにするかクローズアップにするか
  • モチーフ: 季節(春夏秋冬)、天候(晴天、雨、雪、霧)、時間(朝昼夜)

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こうした事情から、《東海道五十三次》の描写は必ずしも実景に即したものではなく、脚色もあると言われています。 たとえば、蒲原は雪の景で描かれていますが、この地域に雪が降ることはほとんどありません。

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ここで広重が絵に施したしかけを探ってみましょう。 《庄野 白雨》は激しい夕立の場面。 背景の林のシルエットが雨風の強さを物語っています。 坂を駆けていく人々は焦りや不安を感じているでしょうが、あえて顔を見せない人物描写で逆に作品の印象を強めています。 打ちつける雨と坂で三角形を成しており、幾何学的構図を多用した《富嶽三十六景》の影響を感じさせます。

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構図だけでなく色彩においても広重は抜群のセンスを発揮しました。 《亀山 雪晴》では少ない色を効果的に用いて画面の情感を最大限引き出しています。 色がつけられているのは朝焼けの空と道中の人々だけ。 でも全面的に色を施すより、雪の冷たさと澄みきった空気がよく伝わると思いませんか?

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《東海道五十三次》の成功で風景画の第一人者となり、晩年まで街道絵や名所絵などの風景画を描き続けました。 京都近郊の名所をまとめた《京都名所》や渓斎英泉との合作《木曾街道六十九次》など、天保期(1830-1844年)に作画したシリーズに秀作が多いです。

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天保期は花鳥画に精力的に取り組んだ時期でもあります。 広重の花鳥画のユニークな点は、画面サイズに縦長の短冊判を採用したことです4。 縦長の画面は掛幅を模したもので、広重の花鳥画版画が掛幅肉筆画の代用品として制作された事情を物語っています。 このような掛物絵は、掛幅と同じく身近な場所に飾り折に触れて鑑賞するものでした。 季節感と動植物を丁寧に描写した広重の花鳥画は、添えられる俳句や和歌と併せて、日常的に楽しむのにぴったりな絵と言えるでしょう。

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濫造の影響から晩年の作品がマンネリ化してしまった面は否めません。 しかしその中にあっても、いくつか言及しておかねばならない作品があります。 以下で紹介するのは、雪月花になぞらえた風景を三枚続のワイド画面に描いた大作です。

《木曾路之山川》はに覆われた山のボリューム感に圧倒されます。 実は人物が点々と描かれているのですが、ほとんど意識されないくらい小さく、自然に対して人間がいかにちっぽけな存在か思い知らされます。 モノトーンに近い画面なので、短冊と印章の赤が目立っており、ここにも広重流の彩色法を見ることができます。

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《武陽金沢八勝夜景》は波のない夜、静寂の情景を描いています。

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《阿波鳴門之風景》は鳴門の渦潮をに見立てた作品。

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最晩年の《名所江戸百景》は画業の最後を飾る作品で、120点に及ぶ連作となりました。 このシリーズは近景と遠景を対比する構図が多用され、近景のモチーフはしばしば画面端でトリミングされています。 このような表現は鑑賞者の没入感を高める効果があります。 また、「当てなぼかし5」という摺の技術を用いて雲をより自然な表現に仕上げました。 広重の斬新な画面作りはヨーロッパにも驚きをもって迎えられ、あのゴッホも《名所江戸百景》を模写したことはよく知られています。

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広重が江戸で流行したコレラに罹患し世を去ったのは1858年、横浜開港の前年のことでした。 外圧に屈して鎖国を解いた徳川幕府でしたが、国内の倒幕・尊王攘夷運動を抑えきれず、ついには大政奉還を迎えることになります。

関連項目

ソース

  • 稲垣進一(編)『図説浮世絵入門』河出書房新社 1990
  • 小林忠(監修)『カラー版 浮世絵の歴史』美術出版社 1998

  1. 「火消同心」は今で言うところの消防隊員です。 江戸の町は燃えやすい木造家屋が連なってできており、一度火がつくとなかなか消火することができず、大きな火事が頻繁に起こりました。 そこで幕府は江戸の消火活動を担う組織(=火消)を編成し、下級役人(=同心)を従事させました。 幕府が大名に課す「大名火消」、幕府直轄の「常火消」、町人が従事する「町火消」と分かれており、それぞれの持ち場が定められていました。 ちなみに江戸時代の消火方法は、火元より風下の家々を壊して延焼を防ぐ方法(破壊消防)が基本でした。 

  2. 東海道のどこが描かれたのか知るには以下のサイトが便利です。 55図の観測地点を示したマップが見られます。 https://creativepark.canon/meiga/artmap/tokaido53.html 

  3. 《東海道五十三次》を発表する前年、広重は「八朔御馬献上」という行事の記録を命じられ、幕府一行とともに京都へ上りました。 八朔御料馬献上は、8月1日(=八朔)に幕府が朝廷に御馬を献上する儀式のこと。 《東海道五十三次》は京へ向かう道中で描いたスケッチをもとに制作されました。 

  4. 花鳥画分野での先達である北斎は、大判や中判といった錦絵の基本的なサイズを使っていました。 

  5. ぼかす部分の版木に水をたらし、そこに絵具を含ませて摺ると、当てがなく偶然の形ににじんでぼかしができました。 これを「当てなしぼかし」と言います。 ぼかしを作りたい部分に印をつけないので、摺師の技量が問われる高度なぼかし技法です。 


最終更新日: 2024-02-26