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浮世絵の歴史(13) 激動の時代を写した浮世絵

幕末から明治にかけて、開国 → 倒幕 → 維新 → 開化と、日本は激動の時代を歩みました。 浮世絵も従来の役者や遊女といったモチーフを離れ、時事を映し出す報道画的な性格を帯びていきます。 たとえば、

  • 開港地横浜の様子や、そこで見られる珍しい異国風俗
  • 異国の脅威に対する拒否反応として起こった尊王攘夷運動
  • 老中井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」等、幕末の政治的な諸事件

が浮世絵に描かれました。 また、ヨーロッパから日本に持ち込まれた色料や写真技術も、浮世絵の変容を促す要因となりました。 ここでは、時代の目撃者として新たな浮世絵表現を模索した絵師たちを紹介します。

歌川貞秀

幕府が外国との通商を禁じたため、江戸時代の日本は長らく鎖国1状態にありました。 ところが、1853年にアメリカから軍艦を率いてやってきたペリーは、幕府に強硬な姿勢で開国を迫りました。 外圧に屈した幕府は、貿易や外国船の出入りのために開港することをしぶしぶ承諾します。

1859年に開港した横浜は、巨大な蒸気船や異国人のファッションなどが江戸っ子たちの興味を惹き、浮世絵の恰好の題材となりました。 開港に沸く横浜の場景や、そこで目にした異国の風俗・文物を描いた絵を「横浜絵」と言い、最盛期の1860~1861年で実に400図以上描かれました。 横浜絵の代表的な作家が 歌川貞秀うたがわ さだひで です。 幕末の歌川派を率いた国貞の門弟で、14歳にして挿絵を描いたという早熟の絵師です。

西洋銅版画から学んだ科学的な作画技法を糧に、精細な描写を得意としました。 《横浜交易西洋人荷物運送之図》では、横浜港に出入りする外国船を巧みに配置し、五枚続のワイド画面に収めています。

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横浜に置かれた商館や外国人居留地は、異国文化が集う場所でした。 《横浜異人商館写真之図》《横浜異人家飲食之図》を見ると、横浜に様々な人種が暮らしていたことがわかります。 着物と洋風ファッションが同居する空間に面白さを感じますね。

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描写の正確性を重視した貞秀ですが、そのこだわりようは絵師というより学者気質と言うべきものでした。 最もたる例が「一覧図」と呼ばれる精密な鳥観図で、制作のためにわざわざ実地調査を行いました。 貞秀の下絵をもとに版木に彫る段階でも、描写が細かすぎて彫師が困ってしまったという逸話が残っています。

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落合芳幾

歌川国芳の門下には二人の俊才がいます。 兄弟子の 落合芳幾おちあい よしいく と弟弟子の 月岡芳年つきおか よしとし です。 芳幾と芳年は《英名二十八衆句》を合作し、「残酷絵」「無惨絵」「血みどろ絵」と呼ばれるジャンルを打ち立てました。 歌舞伎における殺人シーンを絵画化したこのシリーズは、創作の場面を描いていながら、暗殺や天誅が横行する当時の世相を映し出しています。

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芳幾はまた、ニュースを視覚的に伝える「新聞錦絵」を創始した人でもあります。 新聞は明治に入って誕生した新しいメディアで、芳幾も仲間とともに『東京日々新聞』2を創刊しました。 当時の写真印刷技術は未熟だったので、初期の新聞においては挿絵が視覚的イメージを担っていました。 芳幾は新聞挿絵の仕事を手がけるうちに、新聞のニュースを題材にした錦絵というコンセプトに思い至り、東京日々新聞の三面記事を絵画化し始めます。

《東京日々新聞》の画題には刺激的な珍談や醜聞、殺人を含むエログロな事件が選ばれました。 絵には事件のあらまし伝える文章が添えられ、画面全体に豊かな彩色が施されました。 ゴシップで人の気を惹こうとするあたり、新聞錦絵は写真週刊誌の原型と言えるかもしれません。

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江戸時代にも時事ネタを扱う錦絵がありましたが、戯画や見立絵の形で事件の内容を遠回しに描くものでした。 これに対して、明治時代の錦絵新聞は事件の決定的瞬間をとらえており、時には凄惨な殺人の場面も描いています。

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代表的な新聞錦絵に、芳幾の《東京日々新聞》と、その翌年芳年によって創刊された《郵便報知新聞》があります。 両者を比較すると、画面構成において大きな違いがあることがわかります。

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新聞錦絵のような報道画は日露戦争の頃まで存続しますが、報道写真におされ次第に作られなくなりました。 対象を正確に写し取る写真技術は、西洋から流入して以来浮世絵を揺るがしてきました。 芳幾の《俳優写真鏡》は写真風に仕上げた錦絵。 浮世絵師たちが写真に対抗しようと工夫を凝らしたことが伝わってきますね。

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月岡芳年

月岡芳年は明治時代を代表する浮世絵師。 歌川国芳の門弟で、落合芳幾を兄弟子に持ちます。 浮世絵師番付で一位になるなど、当時から人気の高い絵師でした。 ここでは、芳年の画業をジャンル別に紹介します。

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残酷絵

兄弟子芳幾との合作《英名二十八衆句》で残酷絵の端緒を開き、《魁題百撰相》でさらに発展させました。 《魁題百撰相》の画中には、南北朝時代から江戸時代初期までの人物の名と略伝が記されており、一見武者絵のような印象を受けます。 しかし、この作品は上野戦争ー明治元年、旧幕府軍と新政府軍が上野の地で衝突した事件ーという裏のテーマがあるのです。 戦争の直後、芳年は実際に上野に足を運び、戦跡の惨状や彰義隊(旧幕府軍)の死体をスケッチしており、それをもとに《魁題百撰相》を作画しました。 彰義隊員を歴史上の人物に仮託している点で、単に過去を写した武者絵ではなく、現実を写した報道画でもあるのです。

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新聞錦絵

一時期生活に困窮し神経衰弱になってしまいますが、「大蘇」へと改号し、時事報道画の分野で再出発を果たします。 この頃の主要な作例が《郵便報知新聞》です。 このような新聞錦絵はもともと知識人向けの大新聞をスピンアウトしたものでした。 庶民向けの小新聞が普及すると、『やまと新聞』『絵入自由新聞』といった小新聞の挿絵にも仕事の手を広げています。

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武者絵 あるいは 歴史画

芳年は歴史画方面の仕事も重要です。 歴史画を制作する上で参照したのが、菊池容斎の『前賢故実』でした。 菊池容斎は歴史人物画を得意とする絵師で、有職故実の研究者でもありました。 『前賢故実』は、古代から南北朝時代に至るまで天皇に忠誠を尽くした人物を取り上げ、その肖像と略伝を記した書物。 いわば有職故実の教科書です。 古文献・古史料を渉猟した記述が信頼され、後世において歴史画で用いる図像の典拠となりました。

《大日本名将鑑》は菊池容斎に学んだ時代考証が結実した作品。 西洋風の明暗表現も見所です。

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《藤原保昌月下弄笛図》は『今昔物語集』の有名な逸話を絵画化したもの。 盗賊の袴垂保輔が貴族の藤原保昌を追いはぎしようとするのですが、笛を吹きながら悠然と歩いているのに隙を見せない保昌に圧倒され、とうとう保昌の家に着いてしまった、という話。 学生時代、古文の授業で習った覚えがありませんか?

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《月百姿》は月にちなんだ物語を題材にしており、平安時代の美女や戦国時代の武将から、幽霊や妖怪などの不可思議な存在まで、様々なモチーフが描かれています。 全100点にもなる芳年晩年の傑作で、8年かけて出版されました。

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美人画

美人画という浮世絵の伝統的なジャンルでも優品を残した芳年は、「最後の浮世絵師」とあだ名されています。 《風俗三十二相》は美人画の代表作で、過去のある時代における女性の風俗がテーマです。 年齢や職業の異なる多種多様な女性たちを、芳年は見事に描き分けました。

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臨場感あふれる《松竹梅湯嶋掛額》は、恋に生きた実在の女性「八百屋お七」に取材した作品です。 火事の避難先の寺で吉三郎に恋をしたお七は、もう一度火事が起きれば吉三郎に逢えると考えて放火事件を起こし、その罪を問われて火あぶりの刑に処せられました3。 芳年が描いたお七は、振袖を翻しながら裸足ではしごを登っており、悲恋がドラマチックに演出されています。 激しく燃える炎や舞い上がる火の粉、火消隊の纏が集う様子が火事の被害を物語っています。

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妖怪画

妖怪画は芳年が生涯かけて取り組んだ分野です。 初期の作例である《和漢百物語》4では、文学や浮世絵でよく扱われる怪奇場面を描きました。

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《奥州安達ヶ原ひとつ家の図》は、家に泊めた旅人を殺して食ってしまう鬼婆の伝説に取材しています。 この絵を見た時は本当に衝撃を受けました。 妊婦を逆さ吊りなんて、流血を描いた絵よりよっぽど残酷です! 包丁を研ぐ鬼婆の形相は恐ろしく、この先の惨劇を予感させます。 こういった縦二枚続の構図は、芳年の得意とするところでした。

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妖怪画の集大成と言うべき作品が《新形三十六怪撰》。 《月百姿》と並んで最晩年に手がけたシリーズです。 これらの作品を最後に再び精神を病み、快癒することなく亡くなりました。

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河鍋暁斎

河鍋暁斎かわなべ きょうさい は日本画と浮世絵の二刀流で活躍した絵師です。 仏画、美人画、戯画など作画のジャンルは多岐にわたり、主題によって筆法を使い分ける卓越した画技を有していました。

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多くの筆法を駆使

《白衣観音図》で筆法の違いを確認してみましょう。 線の疎密・緩急に注目してみると、観音の面立ちや池の中を泳ぐ鯉は繊細な線で描かれているのがわかります。 他方、樹木や岩肌には肥痩をきかせた力強い線が用いられています。 木と岩の奇妙な形やゴツゴツとした質感は、暁斎が修めた狩野派ならではの描法です。

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異質なものを画面内に共存させる趣向は、描線だけでなくモチーフにも及びました。 《地獄大夫と一休》は聖俗・美醜のコントラストが明快に表現されています。 地獄太夫は和泉国堺の遊女で、一休との連歌問答によって悟りをひらいたと言われる人物。 一休はふざけた調子で踊り狂っていますが、悟りへの手がかりがつかめそうなのか、地獄太夫の方はハッとした表情を見せています。

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暁斎が多様な描法を駆使することができたのは、先人たちの表現をよく学んでいたからです。 『暁斎画談』に狩野派絵師や浮世絵師の画風を真似たスケッチが残っています。

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また、人間の骨格や筋肉のつき方といった解剖学の知見を作画に取り入れています。 西洋由来の科学的な人体描写さえも、暁斎は貪欲に吸収していったのです。

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浮世絵の作例

暁斎は多才かつ多作なので、正直言って画業全体を見通すのは至難の業です。 本記事は「浮世絵の歴史」の連載なので、暁斎の仕事の全貌を把握することよりも、浮世絵史における暁斎の立ち位置を明らかにすることを目指します。

日本画家としてのルーツが狩野派にあるのに対して、浮世絵師としての原体験は歌川国芳にあります。 7歳で国芳の門弟となりますが、10歳で狩野派に鞍替えしたので、国芳のもとにいたのはほんの2年余り。 それでも、動物を擬人化して活き活きと動かすあたり、国芳の奇想を継承していることは明らかです。

狩野派は御用絵師として幕府に庇護されてきましたが、黒船来航以来その幕府の権威が動揺し、狩野派も安泰というわけにはいかなくなりました。 暁斎も絵師になりたての頃は生活が苦しかったそうですが、安政の大地震に乗じて鯰絵を描いてから、錦絵方面に活路を見出しました。 当世風俗を面白おかしく描いた「狂画」を「狂斎」の名で発表し、浮世絵師として人気を集めました。 戯画や風刺画が得意なところも、師国芳の影響が認められますね。

暁斎の浮世絵でまずおさえておきたいのが、《風流蛙大合戦之図》です。 カエルたちが入り乱れて戦う様子を描いた本作が、幕府による長州征討の風刺画であることは有名な話。 動物を擬人化させて描くことで政情批判をカモフラージュしています。 カエルが槍のごとくガマを振るったり、相手に勢いよく水鉄砲を食らわせたりする様子はユーモラスですが、首をはねられて血を流す個体に戦争のリアルを感じます。

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暁斎は無類のカエル好き。 浮世絵に限らず日本画や戯画絵本にもカエルを登場させました。

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骸骨もよく描かれたモチーフです。 骸骨と聞くと恐ろしいイメージなのに、《暁斎楽画 地獄太夫》はちっとも怖くありません。 物思いに沈む地獄太夫の背後で、骸骨の群れが跳梁跋扈しています。 『暁斎漫画』にもいろいろなポーズをとる骸骨の習作が載っています。

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暁斎楽画のシリーズからもう一作、《不動明王開化》を見てみましょう。 二人の従者が鍋の支度をしている中、不動明王が新聞を読みふけっています。 新聞は明治になってから登場した新しいメディア。 悪魔をはらって仏教を守るとされる不動明王でさえ、時流に遅れたくないがために新聞を手放せない、という趣向がなんとも滑稽です。 文明開化と言うと聞こえは良いですが、激変する世相は庶民を混乱させたに違いありません。 暁斎はそうした社会情勢に鋭く切り込み、皮肉たっぷりに描き出しています。

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順調な絵師生活を送っていましたが、上野の書画会5で政府の役人を風刺する絵を描いたことが罪に問われ、入牢3か月、鞭打ち50回の刑を受けます(書画会で暁斎はへべれけに酔っ払っていたらしい)。 この恥辱を深く後悔し、筆名を「狂斎」から「暁斎」と改めました。

絵師としての名声

第2回内国勧業博覧会6に出品した《枯木寒鴉図》が、事実上の最高賞にあたる妙技二等賞を得て、画家としての名声を確かなものにしました。 この作品は当時としては破格の100円で買い上げとなり、一部の人間から「高すぎる」と顰蹙を買ったそうですが、暁斎は「これは烏の価ではなく、長年の苦学の価である」とやり返しています。

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暁斎の評判は国外にも広まり、有力な外国人コレクターが生まれました。 また、暁斎自身も数多くの外国人と交流し、絵をプレゼントしたり、書画会で作画を披露したりしました。 イギリス人建築家のジョサイア・コンドルに至っては、暁斎の弟子となり本格的に日本画を学んでいます。 コンドルはお雇い外国人として招聘された人物で、東大で教鞭をふるうかたわら、鹿鳴館やニコライ堂など著名な建築物を設計しました。 暁斎の残した絵日記にはコンドルが頻繁に登場し、二人の親密な関係を伝えています。

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最晩年、岡倉天心とフェノロサから東京美術学校(現 東京藝術大学)の教授職を打診されますが、病気を理由にこの申し出を断りました。 最期は胃がんで亡くなりました。

豊原国周

豊原国周とよはら くにちか は、新時代にありながら江戸風の役者絵を描き続け、「明治の写楽」と呼ばれました。 三代目豊国(歌川国貞)のもとで絵を学びました。

「大顔絵」と称される役者大首絵でユニークな作品を残しました。 顔アップの構図は迫力がありますが、それ自体は目新しいものではありません(勝川春好や東洲斎写楽が先行しています)。 ここで注目してほしいのは色です。 背景の鮮やかな赤はアニリンという人口染料で彩色されています。 輸入品の人工色料は江戸時代末期から使われていましたが、明治になると輪をかけて多用されされるようになりました。

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国周の役者絵は色使いこそ目新しいものの、歌舞伎役者の肖像という浮世絵の伝統的な主題を扱っています。 そこが江戸っ子のノスタルジーをくすぐり、明治の役者絵師の中で最も人気を集めました。

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関連項目

ソース

  • 稲垣進一(編)『図説浮世絵入門』河出書房新社 1990
  • 小林忠(監修)『カラー版 浮世絵の歴史』美術出版社 1998
  • 岩切友里子(監修)『別冊太陽 日本のこころ196 月岡芳年 幕末・明治を生きた奇才浮世絵師』平凡社 2012
  • 安村敏信(監修)『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師』平凡社 2008

  1. 江戸幕府によって国交を極端に制限する政策がとられました。 鎖国の目的は、幕府がキリスト教や外国勢力を排除して幕府の権威を維持すること。 1633年から鎖国令が出され、1639年のポルトガル船来航禁止令で鎖国体制が完成します。 それから1853年のペリー来航まで、日本の鎖国状態は約200年続きました。 具体的な政策の内容は、オランダ・中国・朝鮮以外との通商禁止、日本人の海外渡航(帰国も!)を禁止というものでした。 

  2. 1872年に創刊された東京初の日刊新聞で、毎日新聞の前身でもあります。 

  3. 火事の規模はぼや程度だったらしいのですが、井原西鶴が『好色五人女』で大火と尾ひれをつけて語り、脚色した話をもとに浄瑠璃や歌舞伎が上演されました。 

  4. 題名に「百物語」とありますが、100図のシリーズ物ではありません。 百物語は「怪談集」程度の意味で、《和漢百物語》は全26図から成っています。 

  5. 著名な書画家がその場で好みの書画を描いてくれるイベント。入場には参加料が必要。 

  6. 殖産興業の目的で明治政府が主催した内国勧業博覧会は、1877年の上野を初回として、東京、京都、大阪で開かれました。 国内物産、美術品、工芸品に加え、技術の進歩を誇示する機械類も出品されました。 


最終更新日: 2024-05-13