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浮世絵の歴史(14) 浮世絵最後の輝き

明治になると、文明開化の名のもとに西洋文化の受容が進み、人々の生活や都市の景観は激変しました。 浮世絵も時代の流れに応じて、目新しい文物や変わりゆく世相を記録・報道するメディアへとシフトします。

そのような風潮の中で、同時代の他の浮世絵師とは一線を画す仕事をしたのが 小林清親こばやし きよちか です。 清親は刻々と変化する光に関心をもち、まだ江戸の面影を残す東京の情景を描き留めました。 この「光線画」の試みは残念ながら短命に終わり、それ以降革新的な浮世絵表現が生まれることはありませんでした。

浮世絵自体は日露戦争を最後に作られなくなりますが、その表現は日本画や版画の分野に受け継がれることになります。

三代目歌川広重

日本は欧米諸国に対して不平等な条件をのまされる形で開国しました。 不平等条約改正は明治政府の悲願であり、欧米列強と肩を並べる存在になるべく、「富国強兵」「殖産興業」を掲げた政策が急ピッチで推し進められました。 そのような近代化政策の一環として、西洋文明の文化や社会制度が積極的に取り入れられました。

浮世絵にも文明開化の諸相が描かれるようになり、「開化絵」として親しまれました。 開化絵の代表的な絵師に三代目歌川広重1がいます。

銀座通りレンガ街を描いた作品を見てみましょう。 西洋風建築物が立ち並び、ガス灯まで敷設されています。 往来では人力車や乗合馬車が行きかい、活気ある街の雰囲気が伝わってきます。

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多くの開化絵は彩色に輸入アニリン紅が用いられています。 空を赤く塗りつぶすあたりが顕著ですね。 鮮やかを通り越して毒々しいとまで評される色合いは、騒々しく落ち着きのない世相をよく表しています。

もう一つ、《内国勧業博覧会美術館》を見ておきましょう。 たくさんの絵画が一か所に集められ、額装された形で展示されています。 これは一見何の変哲もない光景に思えますが、実のところ「美術館」「展覧会」というのは外来の制度で、明治になってから始められたものです。 「絵画=美術館に足を運んで鑑賞するもの」という見方は今でこそ常識ですが、江戸以前の絵画は室内調度品として扱われていました(柱絵や掛軸を思い出してください)。 つまり絵画のありかたは明治を境に決定的に変容してしまったのであり、この開化絵は美術史の転換点を映し出しているのです。

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楊洲周延

楊洲周延ようしゅう ちかのぶ の開化絵は華麗な女性像が見所です。 《貴顕舞踏の略図》は、洋装した男女が舞踏会に興じる様子を描いた作品。 西欧諸国に日本の近代化をアピールするため、上流階級の人々は公の場で洋装することが求められました。 ファッションは新しいのに顔立ちは江戸美人、というアンバランスさがこの絵を印象深いものにしています。

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周延は幕府の御家人の家柄に生まれ、歌川国芳 → 三代豊国(歌川国貞) → 豊原国周 と師を変えながら画技を磨きました。 上野戦争や函館戦争に参戦するなど波乱に満ちた前半生を過ごした後、40歳になってから本格的に絵師生活を始めます。 《真美人》《時代かがみ》の美人画シリーズがよく知られています。

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また武士として幕府に仕えた経験を活かして、江戸城内の生活や行事を絵画化しました。 代表的な作例が《千代田の御表》《千代田の大奥》のシリーズです。 徳川の治世下にあっては描くことが許されなかった主題だけに、周延の「御所絵」は庶民の関心をひきました。

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小林清親

小林清親が手がけた風景版画は、「光線画」として浮世絵史に名を刻んでいます。 光にありように注目して描かれている点がユニークで、明治の東京の街並みを情緒的に切り取っています。 実のところ清親は、初期の数年間をもって光線画の制作を止めており、それ以降の画業は意外と知られていないのが実情です。 そこで光線画の魅力はもちろん、その後の画業がどう展開していったのかについても見ていこうと思います。

光線画

光線画のはじまりとなったのは、1876年に発表した5点の風景画です。 それは東京の実景をとらえた水彩画風の錦絵でした。 それから1881年までの間に計93点の「東京名所図」を刊行しました。 光線画とは、厳密には東京名所図のシリーズだけを指す用語です。

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東京名所図は、それまでの風景画とは異なり、光の階調や明暗表現に腐心して描かれています。 場景設定にもこだわり、図柄が単調にならないよう工夫しています。 朝昼夕夜の異なる時間帯を自在に選択し、雨や雪の景にすることもありました。 さらに光源についても、太陽や月に限らず、提灯やガス灯、飛び交う蛍まで実に様々です。 自然の光が刻々と変化することに注目して絵画化する試みは、モネをはじめとする印象派に通ずるものですが、実は清親が数年早く始めています。

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東京名所図には、同じ図柄で摺の表現が異なる「摺り違い」の作品が存在します。 《柳嶋日没》の摺り違いを見てみると、夕焼けや水面の色の濃淡が違うことに気がつきますね。 毎日少しずつ違う黄昏時のニュアンスがよくとらえられており、共通の版木を使っているとは思えない仕上がりになっています。

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ところで、光線画の清新な表現はどうやって生み出されたのでしょうか? 西洋から流入した油彩画・水彩画・石版画・銅版画・写真からの影響が指摘されています。 清親はこれらの表現技法が持つリアリズムを木版画で再現することを目指しました。 確かな証拠はないものの、英国人ワーグマンに洋画を、下岡蓮杖に写真を学んだという話もあったりします。 清親が先に挙げた表現技法をどのように消化したのか、以下の画像で確認してください。

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清親の東京名所図が人々の心をとらえたのは、ただ表現が目新しかったからではなく、そこに江戸情緒があったからです。 開化絵とは異なり、清親が好んで描いたのは江戸時代の頃から変わらない風景・風俗でした。 本所御蔵屋敷小揚取2という下級幕臣の家柄に生まれ、鳥羽伏見の戦いにも幕府側で参戦した清親が、明治の世に残された江戸の面影を追ってしまうのは、ある意味当然のことだったと思います。 江戸への郷愁を誘う錦絵に商機があったのは確かでしょうが、清親の個人的な思いも制作の動機となっていたはずです。 江戸懐古の作風は永井荷風や木下杢太郎といった文学者からも支持されていました。

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いくら江戸を哀惜しても、悲しいかな、街はどんどん変わってくものです。 東京名所図も近代化が進む東京の様子を記録していますが、開化の文物はあくまで風景画の一要素であって、主役には据えていません。 《海運橋 第一銀行雪中》には明治6年に開業した第一国立銀行が描かれていますが、西洋風の壮麗な外観をアピールする方向ではなく、雪景色の落ち着いた画面にまとめています。

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また《大伝馬町大丸》には電柱・電線・ガス灯が描き込まれており、まだ江戸らしさを残す光景の中で異様な存在感を放っています。 1869年、東京-横浜間で電信が開通し、それを機に電柱と電線が普及しました。

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清親は1881年、実際に起きた大火をテーマに4点の版画を発表すると、それを境に都市風景画の制作をパタリと止めてしまいます。 その理由ははっきりとわかっていないのですが、以下ような推測がなされています。

  • 先の大火で自宅を消失したから(火事の間も夢中でスケッチをしていて、帰った時には家がなくなっていたという話があります)
  • 妻が去ったから
  • 火災で慣れ親しんだ風景が失われたから
  • 明治十四年の政変3で政府への不信感が強まり、制作したい絵の方向性が変わったから

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光線画以後

光線画断筆後の清親は画風を一変させ、風景画以外のジャンルにも挑戦しました。

特に花鳥動物画で独特の画面を作り出しました。 《カンバスに猫》は木版画作品ですが、油彩画のような重厚さを感じます。 背景を黒で潰す色彩感覚も斬新なものですが、重苦しい雰囲気が大衆に好まれなかったようです。

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《清親放痴》など、人物の表情や動きを面白かしく戯画化した「ポンチ絵」でも画才を発揮しました。 ポンチ絵を発展させたのが政治風刺画です。 『団団珍聞』専属の挿絵画家となり、精力的に取り組みました。 様々な案件に追われ、「目が回る」ほど忙しい役人の風刺画が有名です。 辛辣なユーモアをもって描き出された作品の数々は、落ち着いた光線画からはとても想像できないものばかりで、清親の画域の広さに驚かされるばかりです。

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1894年の日清戦争をきっかけに、本格的に戦争画を描き始めました。 当時の浮世絵師の中で最も多く戦争画を描いたのが清親でした。 黄海海戦で清国艦隊が撃沈する様子を、水中にフォーカスした珍しい構図で描いています。

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光線画で新しい浮世絵表現を開拓したのと対照的に、画業後半は伝統的な浮世絵のテーマや様式に立ち返る傾向を見せました。 掲載した風景画・美人画・歴史画の作例を見て、江戸回帰の嗜好を確認してみてください。

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《武蔵百景》は広重の《名所江戸百景》にインスパイアされた作品で、モチーフを近景と遠景に置いて対比して見せる構図が多用されています。

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錦絵の衰退もあり、明治30年代には木版画制作から手を引きました。 亡くなるまで日本各地を旅行し、書き溜めた写生をもとに肉筆画を制作する生活を続けました。

光線画の継承者たち

井上安治と小倉柳村は、清親の影響下で風景画を制作した絵師です。 残念ながら二人とも画家としては短命に終わったので、光線画が長続きすることはありませんでした。

井上安治については、清親に弟子入りしたこと、26歳で夭折したことがわかっています。しかし生い立ちに関する資料がなく、詳しい人物像は判明していません。 デビュー作の《浅草橋夕景》や、《蛎殻町川岸の図》が有名。 《東京真画名所図解》シリーズは四つ切り(はがき大)の小さなサイズ感が特徴で、図柄のいくつかは清親の東京名所図を引用しています。

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小倉柳村は出自や師系が全く不明という謎の絵師。 明治13~14年に版元・新井八蔵から出版した9点の作品が知られるのみです。 それらは全て横大判の光線画風錦絵であることから、柳村が清親を私淑していた可能性は十分にありそうです。 光線画らしく色面とぼかしによる陰影表現を用いていますが、よく描き込まれた線や絵を囲む幅広の枠は柳村のオリジナリティを感じる部分です。

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水野年方

水野年方みずの としかた は初め錦絵や挿絵の分野で頭角を現しますが、のちに日本画家へとキャリアチェンジしています。 13歳で月岡芳年の門人となり、歌川派の錦絵を学びました。 一時は生活のために陶器画を描いていたこともあったようです。 年方は歌川派以外の画技もよく吸収しました。 柴田芳洲から南画、三島蕉窓から人物画、渡辺省亭から花鳥画を学んだとされています。 xxx

日本画風に淡彩色で仕上げた美人画が人気を呼びました。 代表作に《三十六佳撰》《今様美人》があります4。 歌川派一辺倒にならず幅広いジャンルの絵を学んだことで、独自の画風を獲得しています。

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錦絵に並んで重要なのが、新聞挿絵や雑誌口絵の仕事です。 師芳年から『やまと新聞』の挿絵制作を引き継ぎ、新聞挿絵の分野では尾形月耕と人気を二分する存在となりました。 著名な小説家の作品に絵を寄せることも多く、泉鏡花の小説『外科室』はその一例です。

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年方は後年、浮世絵師を脱し日本画に転向します。 その背景には、浮世絵師は狩野派らの本画絵師よりも劣っているという見方がありました。 絵師としてさらなる評価を得るためには、浮世絵師を脱する必要があったのです。

日本画家としては歴史画を好んで制作しており、有職故実を研究するため、小堀鞆音とともに歴史風俗画会を結成しています。 日本美術協会等の展覧会に出品を重ね、岡倉天心をはじめとする日本画界の著名人とも交流をもちました。 《岩清水図》《御殿女中》は日本画の代表作です。

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年方の門下からは、鏑木清方・池田輝方・池田蕉園といった逸材が輩出しました。 師が歴史画を得意としたのに対して、弟子の清方らは美人画の名手でした。 浮世絵の画系は次世代の日本画に継承される形で生き延びることになりました。

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関連項目

ソース

  • 稲垣進一(編)『図説浮世絵入門』河出書房新社 1990
  • 小林忠(監修)『カラー版 浮世絵の歴史』美術出版社 1998
  • 岩切友里子(監修)『別冊太陽 日本のこころ229 小林清親 "光線画"で描かれた郷愁の東京』平凡社 2015

  1. 初代広重の弟子。 二代広重が師家を去った後、初代の養女に入夫して三代目を襲名しました。 

  2. 本所御蔵屋敷は現在の両国付近で、江戸時代には各地からの年貢米を置く幕府の米蔵がありました。 小揚取とは江戸に入港する米を陸揚げする仕事のことです。 清親は16歳の時父を亡くし、家督を継ぐことになりました。 

  3. 1881年、開拓使官有物を不当に安く政商に売り渡す決定が明るみになり、政府は全国の自由民権派から非難を浴びました(開拓使官有物払下げ事件)。 結局政府はこの払下げは中止し、さらに自由民権派に譲歩する形で、10年後の国会開設を約束しました(国会開設の勅諭)。 この時、早期国会開設とイギリス流の議院内閣制を推す大隈重信は退けられ(明治十四年の政変)、時間をかけて君主権の強いドイツ流の憲法をつくるべきという伊藤博文の主張が、政府の基本方針として採用されました。 

  4. https://ndlsearch.ndl.go.jp/imagebank/theme/mizunobijingaで《三十六佳撰》《今様美人》を見ることができます。 


最終更新日: 2024-06-12