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浮世絵の歴史(15) 創作版画運動と新版画

浮世絵という江戸以来の伝統的な木版画は、銅版画や石版画といった舶来の版式に圧されて衰退を余儀なくされます。 多くの版元は絵師・摺師・彫師の協働体制を維持できず、日露戦争の報道画を最後に新版は作られなくなりました。 海外顧客向けに既存作品の複製事業は続けられましたが、浮世絵界隈は明らかに縮小していました。

危機的状況の中、明治末から大正にかけて、木版画を刷新する2つのムーブメントが起こります。 それが「創作版画運動」と「新版画運動」です。 これらはアプローチこそ違うものの、木版画の可能性を探求する試みでした。 一般的な浮世絵のイメージとは少し違うかもしれませんが、浮世絵のモチーフや制作体制を乗り越えようとした点で、浮世絵史に連なる動きと理解されています。

創作版画運動

始まり

1904年、雑誌『明星』に《漁夫》と題された木版画が掲載されました。 制作者は 山本鼎やまもと かなえ、 当時は東京美術学校(現在の東京藝術大学)に在学する画学生でした。 《漁夫》がエポック・メイキングと言われるのは、浮世絵木版画の伝統に反して、絵師自ら彫摺を行ったからです。 浮世絵制作は絵師・彫師・摺師の分業で行われるもので、全てのプロセスを一人で手がけるなど、前代未聞のことでした。 石井柏亭いしい はくてい は『明星』同号で山本の作品を評価し、「刀画」という名称を与えています(まだ「版画」という言葉はなかったのです!)。

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理念

創作版画運動では、画家自身が版画制作の全工程を手がけることが理想とされました。 その理念は「自画・自刻・自摺」という言葉で表されます。 ただし画家の意図を反映させていれば固執しないスタンスをとり、「自画・自刻・自摺」でなければ創作版画ではない、とつっぱねるようなことはありませんでした。 創作版画運動の論者である石井柏亭は、創作版画は複製版画と区別されるべきものと考えていました。 複製版画は肉筆画の再現を目的としていますが、創作版画はあくまで版による表現の開拓が重要。 絵は版に従属するものであり、柏亭の言葉を借りれば「版のための画」なのです。

展開

創作版画運動の舞台は『明星』から『方寸』に移ります。 『方寸』は版画をテーマにした美術・文芸誌で、山本鼎、石井柏亭、 森田恒友もりた つねとも の三人よって創刊されました。 同誌で活躍した画家として、 倉田白羊くらた はくよう小杉未醒こすぎ みせい平福百穂ひらふく ひゃくすい小田一磨おだ かずま坂本繁二郎さかもと はんじろう がいます。

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田中恭吉たなか きょうきち恩地孝四郎おんち こうしろう藤森静雄ふじもり しずお が創刊した『月映』は、日本初の創作版画専門誌です。 『月映』の作家たちの関心は、対象を写し取ることよりも、自身の感情を表現することにありました。 主観や個性が重視され、「表現主義的」と形容される新しいイメージが続々と発表されました。 結核を患い死期を間近に感じていた田中の作品からは、切迫した心理状況が痛いほど伝わってきます。 恩地の作品は次第に前衛的な表現に向かい、抽象版画の先駆けとなりました。

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運動の甲斐あって、版画は油絵や水彩画とは異なる独立した芸術表現として認められていきます。 山本鼎、織田一磨、 戸張孤雁とばり こがん らの尽力により、日本創作版画協会が設立されたのは1918年のことでした。 1931年には洋風版画会や無所属の作家たちを取り込んで日本版画協会と改称し、現在に至るまで活動を続けています。 国際的な評価も高い 棟方志功むなかた しこう も日本版画協会の会員でした。

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新版画

ポイント

新版画運動は、版元の 渡邊庄三郎わたなべ しょうざぶろう が伝統的な浮世絵版画を復活させるべく始めた事業です。 新版画運動の特徴について、まずは以下のポイントをおさえておきましょう。

  • 複製ではなく新しく版をおこしました
  • 版元-絵師-彫師-摺師という江戸以来の分業体制で制作しました
  • 絵師の個性を尊重し、彫りや摺りの工程にも参加してもらいました
    • それまでの分業体制では、絵師の仕事は版下絵と色指定を提供するのみで、彫摺は職人の裁量に任されていました。
    • 新版画では絵師の意図が最優先。彫摺のプロセスも職人任せにせず、版元とともに指示を出す役割を担いました。

制作方法にこだわるのは、単なる浮世絵リバイバルではなく、新しい表現を獲得したいという思いがあったからです。 渡邊自身の言葉を引用すれば、

彫刻法、摺刷法等は昔と同じです、 しかし作る心持は全然違います、 旧型に囚われないよう又肉筆画らしく成らぬよう、 独立した芸術品を作る事に各技術家が協心努力して居ます。1 『川瀬巴水創作板画解説』(渡邊版画店、1921年)

経緯

新版画運動を牽引した渡邊庄三郎は、浮世絵商としてキャリアを積んだ後、独立して渡邊木版画店を開業しました。 その頃の浮世絵業界はすでに新版を作る体力を失っており、過去作品の再版を主に行っている状況でした。 木版画の衰退が著しい中で、なぜ渡邊は新版画を企画することができたのでしょうか? きっかけになった出来事を挙げてみました。

  • 古版画の海外人気を実感
    • 明治期欧米を中心に浮世絵人気が高まり、需要に応える形で浮世絵の複製が盛んに行われました2。浮世絵商だった渡邊は海外の浮世絵ブームを間近で目撃していました。
    • 新版画に着手する前の1907年、高橋松亭を絵師に迎えて輸出用の版画を試作しました。軽井沢で販売したところ好評で、その売上は後年の新版画制作の資金源となりました。
  • 広重作品の再摺に立ち合い、職人の技や錦絵の美しい質感に感動
  • 浮世絵研究に専心
    • 浮世絵研究会を発足。
    • 復刻作品の制作を通して、浮世絵の技法や画材についての理解を深めました。

本格的な新版画運動は1915年から始まりました。 新版画一作目の絵を担当したのは、来日外国人のフリッツ・カペラリです。 和筆を初めて持つ人だからこそ、旧習にとらわれない線と色を生み出せる、と渡邊は考えていたようです。 熟練の彫師・摺師からは戸惑いや反発があったようですが、英語を学んでいた渡辺は、コミュニケーションの労を惜しむことなく制作に臨みました。 カペラリに次いでチャールズ・バートレット、エリザベス・キースも来日し、外国人画家とのコラボレーションはその後も続けられました。

翌1916年からは日本人画家も新版画の制作に参加します。 橋口五葉の《浴場の女》、伊東深水の《対鏡》を皮切りに、浮世絵の三大ジャンルにあたる美人画・役者絵・風景画を網羅する形で作品を刊行していきました。 山村耕花と名取春仙の役者絵は写実性が特徴。 川瀬巴水、笠松紫浪、吉田博は風景画の名手と謳われました。

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1923年の関東大震災は新版画運動に大きな打撃を与えました。 渡邊版画店は全焼し、版や作品はほとんど失われました。 事業再建を急ぐ渡邊は、海外に販路を見出し、輸出を意識した画面作りにシフトします。 実験的な作品や新しい表現よりも、海外コレクターから求められる日本のイメージー江戸の面影の残る日本の風景ーを絵画化することを優先したのです。 最もわかりやすい例が川瀬巴水の《東京二十景 芝増上寺》です。 3000枚が摺られた大ヒット作で、今でも人気が高い作品ですが、「神社仏閣」「和傘の人物」「雪景色」を組み合わせた「わかりやすく日本的」な画面と見ることもできます。

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戦後は技術の継承・作家の発掘がままならず、新版画運動はひっそりと幕を閉じました。

代表的な作家

創作版画運動は洋画出身者が担い手となったのに対して、新版画運動は日本画を学んだ作家が活躍しました。 また、新版画は外国人との仕事から出発したことを忘れてはなりません。 以下で新版画運動に参加した画家とその作品を簡潔に紹介します。

高橋松亭たかはし しょうてい

新版画を準備したと評される絵師。 渡邊庄三郎とともに《墨田堤の夜》を含む連作を作りました。 作品を外国人観光客に売り出したところ好評で、渡邊は新版画への手応えと資金源を得ました。

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橋口五葉はしぐち ごよう

日本画、洋画、装丁、図案とマルチな分野で活躍した絵師。 《浴場の女》《髪梳ける女》をはじめとする美人画が有名。

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渡邊の誘いで新版画の制作を始めますが、数年の浮世絵研究を経て、私家版(自らの版画工房を持ち制作を行うこと)に着手します。 私家版として発表した風景画は、歌川広重へのリスペクトを感じるすばらしい出来に仕上がっています。

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余談ですが、かのスティーブ・ジョブズは新版画愛好家という一面があり、初代Macintoshに五葉の《髪梳ける女》を写しています。

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伊東深水いとう しんすい

鏑木清方の弟子。 《対鏡》は新版画の美人画ジャンルを切り開いた作品。

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《近江百景》では風景を構成する要素をリズミカルな配置し、因習にとらわれない実験精神を見せました。

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山村耕花やまむらこうか

誇張を加えながら役者の個性を描き出しました。

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名取春仙なとり しゅんせん

山村耕花とは異なるスタンスで、役者のカッコよさ・美しさを表すことに関心がありました。

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川瀬巴水かわせ はすい

鏑木清方の弟子。 伊東深水の《近江百景》を見て風景木版画の道に進みました。 初期の塩原三部作は、ばれんの軌跡をあえて残す「ざら摺り」が見所です。

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旅好きで、「旅先で写生、帰京して制作」という生活を続けました。 関東大震災で写生帖や家財を消失しますが、渡邊に促されて写生旅行に出かけ、《東京二十景》を制作しました。 これは新旧の東京を活写したシリーズで、《東京二十景 馬込の月》《東京二十景 芝増上寺》が有名です。

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新橋生まれ巴水にとって増上寺は馴染みのあるスポットだったようで、何度か画題として取り上げられています。

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吉田博よしだ ひろし

1923年の渡米で木版画人気を実感し、私家版新版画に着手しました。 この時制作したのが米国・欧州シリーズです。

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吉田は確固たる完成イメージを持った絵師で、彫師と摺師を厳しく監督することで精巧な作品を作り上げました。 洋画の描法を基調に、複雑な構成や際立った造形、光のグラデーションに腐心しました。 《瀬戸内海集》はシチュエーション違いの連作で、吉田の高い力量が伝わってくる作品です。

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《東京拾二題》は吉田にしては珍しく東京を描いた作品です。

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登山好きという一面があり、実見をもとに《日本アルプス十二題》を制作しました。 頂上からの景色は登山家にしか描けないもので、見所満点です。

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笠松紫浪かさまつ しろう

鏑木清方の弟子。 師の勧めで1919年から新版画の制作に参加し、戦後も新作を発表し続けました。 東京をモチーフにしっとりとした温雅な作風を築きました。

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伊藤孝之いとう たかし

新版画のみならず、自画自刻の作品も手がけました。

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石渡江逸いしわたり こういつ

川瀬巴水の弟子。 横浜の風景を描いたシリーズが有名です。

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小早川清こばやかわ きよし

独特の美人像で人気を博しました。

xxx《近代時世粧ノ内》

鳥居言人とりい ことんど

鳥居派の絵師。 美人画の名手として知られています。

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土屋光逸つちや こういつ

小林清親の弟子。 師の清親は江戸浮世絵と新版画の橋渡し役と評価されています。

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小原古邨おはら こそん

動物花鳥画を得意とした絵師。 細やかな表現や淡い色彩は木版画とは思えないほどの妙味を備えています。

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フリッツ・カペラリ

新版画第一号を制作した、オーストリア人画家。 インド、スリランカ、中国を遊覧したのち来日しました。 線も色彩も素朴な印象ですが、熟練した彫師・摺師は衝撃を受けたようです。 旧習にとらわれない清新な画面が新版画運動の出発点となりました。

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チャールズ・バートレット

イギリス人画家。 庶民の営みを見つめた作品が多く、ありふれた光景が絵になることを示しました。 新版画で初めて異国(インド)を主題とした作品を作り、このインドシリーズが吉田博に私家版に影響を与えたと言われています。

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エリザベス・キース

スコットランド人画家。 朝鮮、中国、東南アジアを巡り、そこで見聞したことを作品制作に活かしました。

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小林清親と新版画

新版画を代表する画家の多くは清方の門弟であり、大きな視点で見れば歌川派の系譜に連なる存在と理解されてきました。

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しかし表現面に関しては、歌川派というよりむしろ小林清親からの影響が色濃い、という新説4が持ち上がっています。 確かに西洋絵画のリアリズムを木版画に取り入れたという意味では、小林清親は新版画の先駆けとみなすことができますね。

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さらに新版画運動を率いた渡邊庄三郎自身が、清親と新版画の関係性を強く支持していたことがわかっています。 その背景には、浮世絵版画から続く木版画の歴史上に新版画を位置づけることで、海外市場でのブランド力を高める狙いがありました。 具体的には昭和初期に清親の再評価・顕彰活動を行っています。 また、清親周辺の画家ー土屋光逸や小原古邨4ーと共に新版画を制作しました。 こうした渡邊の戦略的活動があったからこそ、「清親=江戸の浮世絵版画と新版画をつなぐ存在」という評価が定着したのです。

関連項目

ソース

  • 稲垣進一(編)『図説浮世絵入門』河出書房新社 1990
  • 小林忠(監修)『カラー版 浮世絵の歴史』美術出版社 1998
  • 西山純子『新版画作品集 なつかしい風景への旅』東京美術 2018
  • 千葉市美術館ほか(編)『千葉市美術館所蔵 新版画 進化系UKIYO-Eの美』日本経済新聞社 2021
  • 『版画芸術131号 版画のめばえ』阿部出版 2006 p.84-91

  1. 読みやすさに配慮して、一部の文言を現代表記に改めました。 

  2. 実のところ浮世絵は、日本国内より国外の方が質の高いコレクションを有していたりします。 その一因が明治期の浮世絵大量流出です。 日本人が洋画礼賛で浮世絵を軽んじる一方で、欧米のコレクターや研究者は浮世絵を高く評価していました。 日本で浮世絵が見直されるようになったのは、こうした欧米のトレンドを逆輸入したからです。 

  3. 吉田洋子「浮世絵から新版画へー明治の浮世絵師・小林清親」千葉市美術館ほか(編)『千葉市美術館所蔵 新版画 進化系UKIYO-Eの美』日本経済新聞社 2021 p.142-145 

  4. 小林清親と小原古邨の関係は「版元つながり」です。 清親はかつて版元松木平吉から作品を発表していました。 小原古邨も松木と組んで制作を行いました。 


最終更新日: 2024-03-16